... 日光&月光菩薩が間近でしかも360度、普段は見ることのできない角度からも鑑賞できます。 菩薩さまに手を合わせている方、涙ぐんでいる方、ただただぼんやり眺めている方。。 超混雑につき人がうじゃうじゃいる感じは否めませんが 上からも下からも後ろから ...
... 像 (京都・広隆寺) ⇒ 弥勒菩薩 (仏像・菩薩) ⇒ 勢至菩薩 (仏像・菩薩) ⇒ 般若菩薩 (仏像・菩薩) ⇒ 千体観音堂(京都・三十三間堂) ⇒ 十一面観世音菩薩 (仏像・菩薩) ⇒ 千手観音菩薩 (仏像・菩薩) ⇒ 重文 ...
... 目的は、ただいま上野の国立博物館にて展示されていると聞く奈良薬師寺の日光・月光菩薩像を見てきたいと思ったのである。博物館は上野公園の中にあり、駅からの出口は公園口である。改札口を出るとすぐ目の前に東京文化会館がある。 ...
... 聖観音菩薩さまから離れがたかったのですが、 メインの「国宝・日光菩薩・月光菩薩」さまも拝見しなくては!と思い直し進むと、 まずは2体のお顔が良く見える高台で、正面からお姿を堪能。 表情の違いが面白い。 ...
勢至菩薩について。
の守護本尊って勢至菩薩ですか?あと勢至菩薩を検索すると、座ってたり、立ってたり、ポーズが違ってたり、手が四本あったりといろいろなのがでてくるんですが、どれが本物ですか?これが勢至菩薩だ!っていう....
西遊記に出てくる観世音菩薩サマ
懐かしい日本テレビの「西遊記」に出てくる、(堺正章と夏目雅子のやつです)観世音菩薩の役をしているのはだれでしょう。俳優さんなんですが、けっこうキレイな人で、観世音菩薩サマというかんじがします。....
永遠の命について
永遠の命についてもし、永遠の命が得られるとすれば、貴方はどうしますか?これからの人生設計などについて、お聞かせください。どういった目標をもって生きるか、地球の将来の為に何をしたいのか・・・。貴方が思い描く心のヴィジョンを、言葉で描写して下さい。少し空想じみた質問かもしれませんが、本当に実現したと仮定した上で回答して下さい。質問にこれと言った深い意味はございませんので、気軽に答えて頂けると幸いです。最優秀者には500枚贈呈したいと考えております。
はじめは芳草に随って去り また 落花をおって還る
はじめは芳草に随って去り また 落花をおって還るまた行脚に出ることにしました。わしゃ自我我見のかたまりで、これまでいっぱしに禅をわかったふうに語ってきましたがなんもわかっとらんただのあほうですだ。ただ、いままでの発言にはすべて責任を負っております。間違ったことも言ってきたでしょう。しかしながら私の持てる力で、不便な言葉・文字だけの世界で、なんとかしてわたしのこころというものを伝えてきたつもりですだ・・・この質問をもって最後になるわけですが、次に述べるのはとあるかたから自我我見と評を受けた「禅」の、とある和尚さんの言葉ですだ。「おおいなるものに抱かれあることを 今朝吹く風の 冷たさに知る」この方、わかいころに肺をわずらい、死を宣告された中で、鳥のこえに目をさましたとある朝、ふうと吹いた風に、いのちの尊さを、有り難さを覚り、その後88まで生きられた和尚さんですだ。わたしの声は弱すぎてみなさんの、とくに禅を自我我見と仰ったその御仁のお耳にはとどかんだろうが・・・もし届いたのなら、この禅の和尚さんの言葉をどうお感じになられただろうか?これが「我」の姿であるのだとしたら・・・いや、それは語らんでいこうご意見、ご感想、ご叱責、ご指導、ご鞭撻を頂いて、ここを去ろうとおもいます。みなさん、大変お世話になりました。また沢山のことを学ばせていただき、誠に有難う御座いました。

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この世にはせいぎもあくもなくただ深さがあるだけなのになぜ自分をせいぎだとかく....
この世にはせいぎもあくもなくただ深さがあるだけなのになぜ自分をせいぎだとかくしんしている人間がしゃかいにははびこっているのですか?人間は自己の欲求を満たすためだけに生きている。より欲求を満たしやすくするために効率性を追求し理性や社会、概念などが生まれていった。ほとんどの人間が正義という言葉を聞いて好印象を受けることだろう。それはなぜか?正義とは社会的、常識的なものであるからである。つまり大多数の人間が欲求を満たす上で邪魔にならない、むしろ役に立つものである。そのことを理解せずに常識、社会、正義=正しいと狂信し、思考の停止した人間が蔓延っているように見える。皆は自分の脳みそをつかって考えているのだろうか?
水子供養インターネットで出来る供養ではなく自宅で、自分で出来る水子供養の仕方....
水子供養インターネットで出来る供養ではなく自宅で、自分で出来る水子供養の仕方はあるのでしょうか?知っている方、お願いします。

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自己の絶対的な自己中心性を考えれば相対的に他者の位置付けが限りなく無に近づい....
自己の絶対的な自己中心性を考えれば相対的に他者の位置付けが限りなく無に近づいていくように感じます。赤の他人の死よりも、風邪気味のペットのことや今晩見るテレビの番組の方がこころに占める割合が多いかと。それはマザーテレサさんや聖人さん達でさえ乗り越えられない壁のように感じます。(目の前の死に行く人には優しく出来ても、世界のどこかで死んでゆく人々には手を差し伸べられないしそこまで心配りは出来ないような気がしてしまう。)その反面、愛こそが大切なのだという強い思いも同時に持ち合わせてはいます。持ち合わせてはいるつもりでも、自分を振り返ればなんだか恥ずかしく、虚しいような気持ちになります。人命救助しようとするときに、自分は間違いなく命を落とすが相手は助けられるという状況で実行できる人間はごく少数でしょう。なれるなら、実行できる人間になりたいと思います。やはり自己滅却というような方向しかないでしょうか?